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薄光会設立前夜 [出会い]

生きる事に精一杯な戦後の街も、朝鮮動乱を期に立ち直り、更にオリンピックを控え、焼土と化した街々にも建設の息吹が起こり、繁栄の兆しが見えて参りました。然し、成功者とそうで無い者の間には神と虫けら程の差があり、人の心に弱者を労わるゆとり等全く感ぜられ無い殺伐とした時代でもありました。漸く入所出来た児童施設を年齢制限で退所させられる重い知的障害者達の行き場など何処にも有りません。止む無く自宅で過ごす事になるのですが、耐えられず命を絶つ親子が後を絶たない時代でもありました。-------------------------------------------------------------------------------                     県北のさる児童入所施設の親の会では会長を始め親達は、退園を前にして”成人した吾が子と共に生きて行ける社会”を目指し、退園後も力を合わせ成人入所施設を作る事を誓い合いました。然し、想いと現実が余りにもかけ離れ、思った様には事が捗らず、仲間も一人減り、二人減りして、やがて思いを叶えるのが困難な状態になってしまいました。重度知的障害者が親子揃って生きて行ける世の中を作るには、僅かな親の力だけではとても不可能な事を実感し、広く県内に同じ思いの親達を集め再チャレンジする事を誓い合うのでした。------------------------------------------------------------                          

 その様な時、折角盛り上がって来た此の思いを陰ながら実現させてやりたいと思う行政官が此の県にも居りました。私達の惨状を良く知る彼から「県北の親の会が、此の儘では持たないかも知れぬ、あなた達にも同じ思いが有るのだったら協力してはどうか」との知らせが入り、早速、県庁近くの長屋の2階に有った「宴」と云うお握り屋を訪ねました。県からの連絡を受けたのだろうか?此方からの話もそこそこに「之で何とか継続できそうだ」と満面の笑顔で歓待されました。当時、私達の子供は小学校の1年生、”条件でも聞いて参考にしよう”との思いで訪ねたのですが、何か狐に憑かれた様な気分でいる内に、あれよあれよと思う間に話が進んでしまった様に思いました。後で分かった事ですが、当時のメンバーは僅か5~6名で、話を聞かせてくれた担当者も、自分が経営する会社が倒産したばかりで、其の日の生活も覚束ない有り様だったそうです。市立病院組が加わり、茂原市の途中で解散をした施設建設を目指した皆さんが加わり、八千代市の皆さんや私達が加わっても20名に満たない人数でした。しかも誰一人として裕福な者等居ない貧乏人の集りでした。其れでも、だからこそ何とか生活が出来る環境をと切実に思う組織になって行きました。-----------------------------------------------------
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