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何処へ行っても厄介者(施設建設予定地捜し) [来し方行く末を訪ねて]


苦心惨憺の末、漸く見つけた建設予定地は、いざ最終的に契約捺印の段になると、次々に地主の縁者や近隣住民の猛反対に会い、全て破談になってしまいました。最早之以上どの様に努力しても建設予定地を見付ける事は困難と途方に暮れて居りました。そんな時、漸く巡り合えた地主さんが豊岡光生園の地主さんでした。私達は地獄で仏に会った様な気持ちで慶びました。処が予定地は掘削しても水も満足に出ない、房総丘陵の北側で前面に農業用水のダムのある荒れた傾斜地でした。然し最早私達に選択の余地など有りません、止むを得ず施設建設用地として此処を契約する事に致しました。そして所轄官庁の許可を得、何の拘りも無くこの地に施設を建設致しました。現在では、指導官庁は、街なかに移転する様に薦められますが、私達は、選り好んでこの地に開設した訳ではありません。予定地を探し出しては、断られ続け、尻に火のつく様な思いで漸く借用する事が出来た場所が此の地で、他に建設出来る場処等何処にも無かったのです。溺れる者は藁をもつかむ思いでこの地にしがみ付いて来たのです。僅か30数年前の事ですが、之も障害者差別に係わる此の国の歴史の一齣とご理解頂ければと存じます。障害者や其の家族にも、施設にも、其々歴史が有り、訳が有って現在に到って居る事を重く受け止め、制度改定等には充分配慮して戴きたいと思います。親達は、その後も継続して、建設に必要な法人の自己資金を作り、行政や支援団体より援助を戴き、医療福祉事業団の融資を受け、施工業者にも協力頂き、漸く吾が子等の為に施設を開設する事が出来ました。然し、運営費(措置費及び寄付金等)の中から医療福祉事業団への返済等はとても不可能でした。親子が共に生きて行く為にかけがえの無い此の施設は自分達親子で護って行かなければなりません。窮余の一策として、止む無く成年に達した利用者の年金の二分の一に当たる金額を返済金に宛てる事とし、親達はこぞって之に協力致しました。この様にして県内各地から集まった重度障害者及びその親達は、この地では全くのよそ者集団で、鈴木前理事長の言を借りれば「孤軍敵地に舞い降りた落下傘部隊」の様な存在でした。法人設立頭初より今日まで、私達は、「互いに支え合い、子供達は自分達の手で護る」自助努力をバックボーンに多くの方々の援助を戴き行動を続けて参りました。然し、之は吾が子を思う親達の愛情と「措置費制度」と云う背景に支えられたものであり、広く地域に開かれた施設とは程遠い存在でありました。然し、現在では福祉に対すろ世間の考え方も大きく変わり、バリアフリーの概念が普遍的になり、利用者に依る選択の時代になりました。地域のニーズを満たし、より強く地域に密着し、地域の人々に頼りにされる存在にならなくては存続は不可能な時代になりました。

築30年を迎えた園舎


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