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来し方行く末を訪ねて ブログトップ

福祉とビジネスの問題点 [来し方行く末を訪ねて]

我が国も成熟社会を迎え老人や障害者に理解を示す様に変わり、ようやく北欧諸国なみの福祉社会が到来するかに見えました。然し、嘗て、小泉首相時代の自民党が提唱した”地方で出来る事は地方で、民間で出来る事は民間で”と云った「小さな政府論」は、規制の少ない市場原理主義経済を望むアメリカ共和党型社会待望論でもあります。政府は税金を使ってもやらなければならない「最小限必要な社会保障」と市場原理に基づいて活動する私企業の活動分野の境界さえ示さず、全てをまやかしのセフテイネットで覆い、年々増加する社会保障費を抑制する事だけに血道を上げ其れが恰も行政改革だとの勘違いも甚だしい!之では福祉は私企業の利潤追求の餌食になるだけです。そして真に支援の必要な弱者は永遠に切り捨てられてしまいます。政治や、経済は、政治家や企業家個人の権力や利益を擁護する為の道具では無く、すべからく国民を幸せにする為の道具である事を肝に銘じて戴きたい。税(公助)に頼らず医療や介護等の保険制度を基礎に構築された社会保障制度(アメリカではこの様な保険制度さえ確立されて居りません)は社会保障とは云え保険制度そのものです。保険料の支払いが滞った場合、行政は当然保険証を取り上げてしまいます。之では貧乏人は本当に必要な時に使えません。生存権に係わる忌々しき事態です。之は社会保障でも福祉でも有りません。現在の社会保険制度は抜本的に改定する必要が有ります。社会保険制度に依る支援と税金で賄う弱者救済の為の公助を明確に区分する必要が有ります。雨後の筍の様に誕生している私企業に依る介護ビジネスは社会保険制度と税で賄われる公助のはざまを如何に利用して有利に利益に結びつけるかを背景に構築された福祉の商業化そのものです。商業化が悪だとは申しません。採算に乗る部分は正に恰好のビジネスです。然し、私企業に依るビジネスライクな介護が公的支援分野の社会保障費を極端に消費し、1000兆を超える財政赤字の根源を作っている事も考慮すべきです。「株主保護と利潤追求」を目的とする私企業である限り不採算部門は必ず切り捨てます。此の不採算部門こそが、真に必要な社会保障です。現在の福祉ビジネスの問題点は正にこの個処に有ります、採算の合わない箇処を合う様に捏造して公金を受け取る(嘗てコムスンでは、此の部門の制度を悪用して利潤追求の道具と致しました。コムスンが破綻した後、其の様な処をビジネス化する私企業が現れぬ為利用者はコムスン時代の様に行き届いた介護が受けられず泣きを見ているとテレビでは報じて居ります。)「ビジネスと福祉」「私企業と社会福祉事業」の役割分担を明示せず福祉の商業化を推進した場合、私企業が利益の拾い取りで食い散らした残飯のみ受け持つ事になる福祉関連の公益法人は成り立ちません。やがて福祉不毛の時代に突入します。為政者は生活苦におびえ慄いている弱者にこそ明るい未来を夢見る政策を打ち出して貰いたいものです。

談話室


法定成年後見人NPOひかり [来し方行く末を訪ねて]


利用者である子供達が親亡き後も安全に生き続けて行ける事を願って保護者会では嘗て「年金管理委員会」「互助会」等の活動を続けて参りました。然し、之では不充分です。更に発展させ2005年11月に法的に第3者に対抗可能な法人成年後見人「NPO法人ひかり」を設立致しました。生身の人間と異なり順調に管理運営さえすれば滅びる事のない、しかも複数の理事の意見を採り入れられる、云わば不滅の「法人法定成年後見人制度(平成12年民法改訂)」を利用して親亡き後も利用者達が恙無く生きて行ける様に家裁の指導管理の下「身辺監護」及び「財産管理」等の活動をしています。「薄光会」とは利益相反する別の法人で有る事も互いに研鑽し合え、利用者にとって重要な要素でありましょう。
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親達と職員が協力して施設の運営 [来し方行く末を訪ねて]

光生園中庭子供達の支援や「親亡き後」の問題など、職員を交え真剣に討議を重ねながら必要に応じ対策を構じて参りました。親亡き後、利用者の「生涯支援」についても真剣に討議を重ねました。子供達が歳を重ね成人施設での生活が儘ならなくなり、老人施設に入る頃には親は亡く、其の時になって困らぬ様にと資金を出し合い、「生涯支援」を目指して特別養護老人ホームを、更には地域との交流を深め、地域密着型に方向転換を図る為、地域の障害を持つ子と家族の幸せを願って[特別支援学校の高等部卆業後]の支援の場である通所施設の建設を計画し実施して参りました。




何処へ行っても厄介者(施設建設予定地捜し) [来し方行く末を訪ねて]


苦心惨憺の末、漸く見つけた建設予定地は、いざ最終的に契約捺印の段になると、次々に地主の縁者や近隣住民の猛反対に会い、全て破談になってしまいました。最早之以上どの様に努力しても建設予定地を見付ける事は困難と途方に暮れて居りました。そんな時、漸く巡り合えた地主さんが豊岡光生園の地主さんでした。私達は地獄で仏に会った様な気持ちで慶びました。処が予定地は掘削しても水も満足に出ない、房総丘陵の北側で前面に農業用水のダムのある荒れた傾斜地でした。然し最早私達に選択の余地など有りません、止むを得ず施設建設用地として此処を契約する事に致しました。そして所轄官庁の許可を得、何の拘りも無くこの地に施設を建設致しました。現在では、指導官庁は、街なかに移転する様に薦められますが、私達は、選り好んでこの地に開設した訳ではありません。予定地を探し出しては、断られ続け、尻に火のつく様な思いで漸く借用する事が出来た場所が此の地で、他に建設出来る場処等何処にも無かったのです。溺れる者は藁をもつかむ思いでこの地にしがみ付いて来たのです。僅か30数年前の事ですが、之も障害者差別に係わる此の国の歴史の一齣とご理解頂ければと存じます。障害者や其の家族にも、施設にも、其々歴史が有り、訳が有って現在に到って居る事を重く受け止め、制度改定等には充分配慮して戴きたいと思います。親達は、その後も継続して、建設に必要な法人の自己資金を作り、行政や支援団体より援助を戴き、医療福祉事業団の融資を受け、施工業者にも協力頂き、漸く吾が子等の為に施設を開設する事が出来ました。然し、運営費(措置費及び寄付金等)の中から医療福祉事業団への返済等はとても不可能でした。親子が共に生きて行く為にかけがえの無い此の施設は自分達親子で護って行かなければなりません。窮余の一策として、止む無く成年に達した利用者の年金の二分の一に当たる金額を返済金に宛てる事とし、親達はこぞって之に協力致しました。この様にして県内各地から集まった重度障害者及びその親達は、この地では全くのよそ者集団で、鈴木前理事長の言を借りれば「孤軍敵地に舞い降りた落下傘部隊」の様な存在でした。法人設立頭初より今日まで、私達は、「互いに支え合い、子供達は自分達の手で護る」自助努力をバックボーンに多くの方々の援助を戴き行動を続けて参りました。然し、之は吾が子を思う親達の愛情と「措置費制度」と云う背景に支えられたものであり、広く地域に開かれた施設とは程遠い存在でありました。然し、現在では福祉に対すろ世間の考え方も大きく変わり、バリアフリーの概念が普遍的になり、利用者に依る選択の時代になりました。地域のニーズを満たし、より強く地域に密着し、地域の人々に頼りにされる存在にならなくては存続は不可能な時代になりました。

築30年を迎えた園舎


社会福祉法人の立ち上げ [来し方行く末を訪ねて]

僅か三十数年前の養護学校もまだ無い頃の話ですが、世間では福祉に関する理解がまだ浅く、障害者と其の家族にとって此の国はとても住み難い処でした。大勢の希望者の中から漸く入園出来た児童施設も、十八歳になると強制的に退園を迫ります。其の後、入れる施設等何処にもありません。障碍を抱えた子を自宅に迎え、共に暮らして行くしか道はありません。やがて其んな生活にも疲れ果て、我が子と共に命を絶つ親が後を絶ちませんでした。此の様な状況を乗り越え、親子が共に生きて行くには、自分達の手で入所施設を作り、運営して行く以外方法が見当たりませんでした。其処で、如何したら、自分達の手で施設を作る事が出来るか?親達は真剣に考え検討を重ねました。結果、自分達で社会福祉法人を設立し、行政や支援団体の援助を受け施設を作り、自分達の手で運営して行く以外方法の無い事を知りました。それにしても想像を絶する自己資金が必要な事を知り愕然と致しました。然し、此の儘、黙して座するのみでは親子共に死を待つばかりです。力を合わせ行動を起こせば開ける道が有るだろうと、不安を抱きながらも、法人の立ち上げを決意し、が先ず、募金を募りました。然し素人の悲しさ、思う様に募金など集める事が出来ませんでした。止むを得ず自分名義の不動産を持つ親達は、自宅や屋敷を担保に資金作りをする事に致しました。一方、此の様に家族をも全て犠牲にした、献身的な同志の行動を無駄にさせてはならじと、他の親達も其々自分達の出来る方法で資金のカンパを始めました。そして、紆余曲折の末、施設建設に向け、漸く法人を立ち上げる資金を作る事が出来ました。
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